結論から言うと、もうダメでしょうね。日本は。
完全に腐っている。
でも、どこがダメなのか、どこが腐っているのかをはっきりさせることには意味がある。
それは、「対案」を示すためではありません。
社会が腐敗に向かう近代というプロセスにおいて、「対案」など存在しないという前提のうえで、自分の生き方を定めるためです。どこに軸足を置くのか、あるいは置いてはいけないのかを明確にするためです。
近代大衆社会がどのような形で暴走し、どのような形で行き詰まるのかについては、これまで多くの哲学者・思想家が語り、実際そのとおりになってきた。
その兆候をすばやく察知し、わが国の現状に警告を発したのが、作家の三島由紀夫(一九二五~七〇年)です。
一九七〇年、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促し、割腹自殺しています。
その後、多くの三島論が書かれましたが、三島が理解されたかといえば疑わしい。それどころか、「エキセントリックな右翼」「偏狭な復古主義者」「時代錯誤のロマンチスト」といった歪んだ評価が蔓延している。
しかし、三島を読めば、彼が「真っ当な保守」であることがわかります。
逆に言えば、三島が理解されなかったのは、彼が「真っ当な保守」だったからです。
なぜ「真っ当な保守」は理解されないのか?
近代が誤解されているからです。
保守とは近代に対するアンチテーゼです。
だから近代がわからなければ、保守もわからない。
三島は近代の病を直視しました。
古今東西、あらゆる古典に通じていた三島は、戦後という狂気の時代において正常な思考を維持したため、反発を買ったわけですね。
三島はドイツ文学者の手塚富雄(一九〇三~八三年)との対談でこう語っています。
三島 ぼく個人の体験で申しますと、「ウンツァイトゲーメス」というニーチェのことばが非常に好きで、戦争中はウンツァイトゲーメス、「反時代的」と訳されていましたか、それがもう唯一のよりどころみたいなものでした。
手塚 「季節はずれの」という訳もありましたね。
三島 ええ。それに戦争中からずっと、戦争に便乗するインテリというツァイトゲノッセ(同時代者)、戦後は戦後派というツァイトゲノッセがきらいで、それでニーチェがその後も好きになったわけですね。(「ニーチェと現代」)
三島は時代のいかがわしさに吐き気を覚えていた。
なぜ今の日本はおかしくなったのか?
なぜ世の中バカばかりなのか?
そういう疑問を持ったとき、三島が残した厖大な量の評論は非常に参考になります。
だから、三島の言葉を振り返りながら、今の世の中、ひいてはわれわれの思考の土壌について考えてみようというのが本書の趣旨です。
本書は三島論ではないので、小説や戯曲には言及しません。また三島の評伝でもない。楯の会と森田必勝(一九四五~七〇年)がどうしたとか、仮面(ペルソナ)と肉体がどうしたとか、神風連の乱と陽明学がどうしたとか、そういう本はたくさん出ているので、そちらを読んでください。
第一章では、三島の言葉を参照しながら、わが国において「保守」が急速に劣化した原因を探ります。
現在「保守」と呼ばれる人たちの中に、極端にレベルの低い人が混じっています。
なにか事件があれば脊髄反射のように「在日の仕業だ!」など騒ぐような人たち、意見が合わない相手に、「共産党だ」「コミンテルンだ」とレッテルを貼る人たち、中韓の反日プロパガンダに過敏に反発する一方で、反中反韓プロパガンダにはコロッと騙される人たち、メディアが用意した「正論」にしがみつく思考停止した人たち……。本書のサブタイトルにあるように、B層(近代的諸価値を妄信するバカ)が「保守」を名乗っている。これを「偽装保守」と呼びます。
第二章では、三島の警告を受けて、大衆社会のメンタリティーについて考えます。
第三章では、政治の劣化の象徴として安倍晋三の問題を採り上げます。「非保守」的なものに自称保守が流されていくメカニズムについて考えます。
第四章では橋下徹の台頭とその暴走を許容する社会について検証します。われわれの社会は、破局に向けてすでに最終段階に入ったと考えたほうがいい。
第五章では、宗教と保守思想の関係について述べます。
いずれも、それほど難しい話ではありません。
保守とは本来《常識人》のことです。
三島の思考を追体験することで《常識》を取り戻すことが大切なのです。
