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立ち読み公開

はじめに
今、なぜクソジジイなのか?

『クソジジイ!ショーペンハウエル 絶望の時代の最強の生き方』(講談社+α新書)より
クソジジイ!ショーペンハウエル 表紙
クソジジイ!ショーペンハウエル
絶望の時代の最強の生き方
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どうしようもない世の中である。

国内でも国際社会でも理不尽なことばかり。
腐り果てた社会では、まじめにやっている人間がバカを見る。もちろん、そう思わない人もいる。彼らは今の時代や社会に適応している幸福な人々だ。日本の政治もそこそこうまくいっており、日本は諸外国に比べたら安全で文化的な国だと考えている。SNSのプロフィール欄には「日本が好き」と書いたりもする。

しかし、絶望している人は多い。彼らは無力感に打ちひしがれ、癇癪を起すか引きこもる。

社会に適応するのか反発するのか? 第三の道はないのか?
ある。

クソジジイになることである。

クソジジイとは何か?
たとえば死んだときに葬式の参列者から「ああ、あいつは本当にロクでもないクソジジイだったな」と言われるのは誉め言葉だが、「あいつはよいジジイだったな。そこそこ出世して、一国一城の主となり、家族もきちんと養い、大きな問題も起こさずに、おだやかな顔で亡くなった」と言われたら侮辱である。

この説明にピンとこないなら、アルトゥル・ショーペンハウエルの顔を見ればいい。あの陰険な表情、南部虎弾のような髪型、そこに彼のすべてが集約されている。ショーペンハウエルは他人の評価を気にしなかった。

「嫌われる勇気を持て」というフレーズがある。他人の評価に縛られずに生きろという主張は、一見、ショーペンハウエルのそれに近いように見える。

だが、根本的なところが違う。勇気が必要という時点で、世間の評価が前提になっている。ショーペンハウエルの立場は、「他人に好かれようが嫌われようがどうでもいい」である。

変わり者、協調性がない、空気が読めない……。世間がこう呼んで排除するものを、ショーペンハウエルは「凡庸さからの距離」として誇った。世間の価値判断を自分の思考に侵入させないことが、彼の言う精神の独立である。

ショーペンハウエルは言う。

この際、ほとんど大多数の人びとがどんなに低俗な考えをもっており、またどんなにつまらない才能しかないかを、すなわち彼らがいかに俗悪であるかをよく考えてみるがよい。そうすれば、一時的におのれを卑しくせずして彼らと語ることはできないことが分かるだろう。さらに愚者、馬鹿者を相手どっておのれの分別を示す方法は一つしかないこと、しかもその方法とは、彼らとは語らないことであることが分かってくるであろう。(『孤独』)

雑音は無視でOK。
バカからの称賛は侮辱である。

昔の浅草には身長が一五〇センチくらいの小さいジジイが大勢いたような気がする。安物のカツラをかぶり安物の杖を持って、ひとりで不機嫌そうにビールを飲んでいたりする。穏やかで、社交的で、頑張り屋さんで、日常会話のネタも豊富な、よいジジイより、謎の大物感があるそんなジジイのほうが面白かったりする。

ショーペンハウエルもそうだ。身長は低く、杖を持ち、歩きながらブツブツ独り言を繰り返した。自分の問題をすべて棚に上げ世の中を罵倒し、「幸福など存在しない」と言いながら幸福を求め、女性を見下す一方で女が大好きだった。

この矛盾、一貫性のなさ、適当さ、みっともなさをショーペンハウエルは哲学に結晶させた。ここが、単に絶望するだけの人間とは違う。転んでもただでは起きない。

まずは第一章を読んでほしい。そうすれば「クソジジイ」という言葉が悪口でも誇大表現でもなく、そうとしか呼べない人物であることがわかる。

クソジジイは最強の生き方である。私もクソジジイになりたい。

では、ジジイになれない女性の方はどうすればいいのか。大丈夫。クソババアになればいいのである。

適菜収

この続きは、書籍でお楽しみください。

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