学校の国語の教科書に載っている有名な一文です。
現代日本語に訳せば、暇にまかせて心に浮かんでは消えていく、なんでもないようなことを、なんとなく書いていると、だんだん自分の頭がおかしくなっていくような気分になるということです。
『徒然草』には、世をはかなんだ老人が、仏教思想に基づいたわびさびをおだやかに語ったというイメージがあるかもしれませんが、それは間違いです。
兼好法師は「腐った世の中と戦え」と言ったのです。
兼好法師は、目が見える人間でした。
人間の本性も宗教の本質も見抜いていた。
世の中の多くの人間は、目の前にある障害に気づかず、同じ過ちを繰り返している。
それを指摘すれば、逆に、狂人扱いされることもある。
しかし、見たものは見たのである。
だから、兼好法師は、自分が狂っているのか、それとも世の中が狂っているのかと自問自答を繰り返しながら、自分が見たものを語ったのです。
一流の人間はすべて同じです。
一流の画家は、普通の人間の目に映らないものを見てしまう。そしてそれを描く。クロード・モネのように。
一流の音楽家は、普通の人間には聞こえない音を聞いてしまう。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのように。
一流の思想家は、普通の人間が気づかない歴史の流れに気づいてしまう。アレクシ・ド・トクヴィルのように。
兼好法師も人間の本質が見えすぎるほど見えてしまった。
彼が言ったのはこういうことだ。
人間社会のしきたりや儀礼は無視することはできない。しかし、世俗のことばかりに囚われれば、望みも多くなり、身体も苦しくなり、心の暇もなくなってしまう。
そして一生はこまごまとした雑事をこなすだけになり、むなしく終わる。
だから兼好は叫ぶ。
兼好法師は『徒然草』でこういうことを言ったんですよ。
決して、ものわかりのよい老人ではない。
彼は単に「常識を破壊せよ」と言っているのではありません。
世の中で「常識」とされているものは、本当に「常識」なのか問い返せと言ったのだ。
そして、腐った社会に対し、呪詛の言葉を投げつけた。
お前らの愚劣な正体を全部見抜いてやると。
兼好法師は鎌倉時代末期から南北朝時代の人間です。にもかかわらず、彼の思想は現在の西欧と同じ地平に達していた。
なぜか?
いつの時代においても、目が見える人間は、多くのものが見えるのである。
これを一般に見識という。
見識のある人間は、状況判断を大きく間違えることはありません。
変なものが出てきたときにすぐに「これは変だ」とわかる。
一方、見識がなければ、いくら知識があっても、すべてを間違える。
では見識を身に着けるにはどうしたらいいのか?
見識のある人間の思考回路をなぞることである。
その息遣いに馴染むことである。
本書では『徒然草』のハイライトの部分を引用し、対応する現代語訳を載せ、私のコメントを追加した。
『徒然草』は、現代人の固定観念をぶち壊す過激な思想書だ。
書店に積まれている自己啓発書100冊を読む暇があるなら、『徒然草』にあたったほうがよい。
この続きは、書籍でお楽しみください。
Amazonで購入