重慶大厦 四階 記憶のゴミ

漂えど沈まず

非生産性対談
隣近所の話
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【前口上】各界の第一人者をゲストにお話を伺うコーナー。今回のゲストは静岡県富士市在住、83歳の大村キク女史。適菜収の熱狂的ファンということですが、その毒舌は適菜以上。
息子夫婦と同居していたが、息子が死去したあとは、嫁が愛想をつかして出ていってしまったとのこと。
正直私も疲れました。

適菜■最近、無意味な話をさらりとできるのが大人かなという気がするんですよ。

キク◆えっ?

適菜■いや、なるべく実りのない会話がいいかなと……。

キク◆あらいやだ。耳がねえ。ほら。おばさん、今年でもう八三になるだよ。困ったもんじゃんけね。 美津子さんがうんと部屋を散らかして家を出て行ってしまったから、片付けるのが大変でねえ。家を出てもう四年になるだよ。

適菜■お嫁さんですか?

キク◆ここだけの話だけどね、私この前、美津子さんに手紙を書いただよ。「百万円を返してください」って。私がここに嫁に来てから買った土地があるっちゅうわけ。 それと爺さんが残した畑。でも田舎の土地だから、売ろうと思っても買い手がないだよ。それで、いよいよ困るようになった。 だから美津子さんに手紙を出したら、「家の改装をするから、へえ、カネはないだよ」って返事が来たわけよ。

適菜■なんの話ですか?

キク◆美津子さんが家を出るときに、当面の生活費として百万円を置いていったんだけど、おばさん、それを嫁の銀行口座に全額返しちゃったの。

適菜■黙ってもらっておけばよかったのに。

キク◆くやしいからよ。そのときは生活にも困っていなかったし、欲をかくのもみっともない。だから私、親類の衆が全員いるところで、「年寄りにはカネなんていらない。お金より愛情だよ」と言ってやっただよ。

適菜■ほう。

キク◆ほしたら美津子さん、さしあたりということで、現金封筒で十万円送ってきたのよ。私、意地っ張りだから、それに十万円足して、 「改装祝いだ」って言って二十万円送っちゃったの。だから、おばさん、へえ、カネがないだよ。

適菜■おばさんは今一人暮らし?

キク◆ほうよ、美恵子さん、孫の美江も一緒に連れていったんだから。 美江が中学生のとき「勉強なんて世界中訪ねても好きな人はいないわ」と言ったときに、へえ、だめだと思ったね。 勉強が嫌いだったら大学に行く資格がない。美江は小学校のときは頭がよかったのに、中学でがたんと落ちて。 それでも、ずっとPTAの会長をやっていて。

適菜■PTA?

キク◆いや、生徒会の会長をしていたんだから。

適菜■優秀なお孫さんだったんですね。

キク◆ほうよ、昔はね。でも美江は勉強を嫌がったから、美津子さんもこの土地に住み辛くなったのよ。 だって、おばさんの家の近所の衆は、皆いい大学に行ったでしょ。向いの高橋さんのボコが東大でその隣が筑波で、 後藤さんの家は二人が慶應。美江なんかは下っ端だけん。後藤さんの上の息子は今は通産省で、 ロンドンに行って最近帰ってきたけど、英語なんかペラペラ。でも、いつまでも結婚しないっちゅうから困るじゃんけね。

適菜■そうですね。

キク◆でも裏の家がだめっちゅうわけ。なにしろ裏は暴走族で高校にもいってない。夜中にすごい音をだしてバイクに乗るだよ。 向かいは、東大、筑波、慶應なのに、裏のボコはお唐人。だから、昔から美津子さんは「裏の家が嫌」って私に言うの。 家から出ていった理由はそれもあるわけよ。美津子さんは過保護だから、乳離れだか子離れだか知らんけど、なんでも連れて歩くから、美江もバカになっちゃった。あれは困るねえ。

適菜■おばさんは教育熱心なんですね。

キク◆おばさんのお旦那は早稲田大学を卒業したけんど、私は中学校しかでていない。だから、人並みになるために勉強しようと思って、NHKの文章教室を始めただよ。 それで、随筆ってものがわかるようになった。遠くを見て遠くを書いて今度は足元を知ると。 文章とはそういうものだと勉強したから、おばさん、誰にも相談しないで『遠い散歩道』ってエッセイ集を出しただよ。 印刷するのに百万円かかったんだけど、それが美津子さんには気に入らんだよ。「おばあちゃん、勝手にこんなのを出して」って文句を言いやがる。

適菜■すごいですね。おばさんはエッセイストだったんだ。

キク◆実はそうなのよ。私は本だって読んでいるだよ。曽野綾子さんの『晩年の美学』。私もリンカーンや田中角栄の本は最後まで読まんけど、 『晩年の美学』は面白かった。近所の衆にも読みなさいって言ったけど、読みたくないって言うのよ。結局、学がないのよ。

適菜■なるほど。でも、健康そうじゃないですか。

キク◆おばさん、ゲートボールの会長もやっているから、毎回ヤクルトを皆に配るだよ。生活にゆとりがあるわけじゃないけど、 そういうことをするのが楽しいわけ。私はゲートボール場に草花を植えているの。基礎からきちんとするから、去年植えたパンジーもまだ残っているだよ。 これからの季節はポピーが咲く。嫁が出ていったからってジメジメしていたら、「あそこのばあさん置いていかれた」なんて近所にすぐ噂される。 だから、ヤクルトを配ったり、花を植えたりするだよ。おばさん、負けん気があるからね。それを近所のバカが妬むわけよ。

適菜■そうなんですか。

キク◆この前、後藤さんが「寺島さんの奥さんがあなたのことを惨めな人だって言っていたわよ」って私に教えてくれるから、「あんたのような存在こそ、平和を乱すのよ」 って言い返してやっただよ。そんなこと黙っていればいいのに。まったく私はああいう人の気持ちがわからんよ。だから田舎者はバカなのよ。 孫は慶應なのにねえ。後藤さんはゲートボールのときに、いつもアメしか持ってこんだよ。私はアメなんて舐めないから欲しくもないし、 そんなケチなところを他人に見せたくないっちゅうわけさ。

適菜■はあ。

キク◆ゲートボール場に三人掛けの軽いアルミの椅子があるじゃん。 私はあれを十個も寄付しただよ。ひとつ八千円。で、公民館の椅子にも十万円寄付したら、 美津子さんが偶然それを見つけてきて怒るわけよ。「老人は勝手に寄付するから困る」って言いやがった。 でも、私だって負けたくないからね。老い先短いのが分かっているから、死ぬときに飾る写真を用意しておいたけど、 気に入らんから燃しちゃって、違う写真屋さんで撮っただよ。「前の写真はおばあさんに見えるから、もっと若く撮ってください」 って言ったから、三万円も余分にかかった。お位牌を作るのにも四万五千円。私にも『晩年の美学』があるからね。歳をとってボケても困る。 だから食事はしっかりとるだよ。お新香だけでご飯を食べるときもあるけど、いよいよストレスがたまると、好きなものを食べる。 饅頭も食べるし、梅の乾燥したのも食べる。梅は一袋千円するだよ。おばさん、この前病院に行ったら、「どこも悪いところがない」 と言われて、じょうぶがっかりしちゃった。だって私だって八三にもなって、この先何があるのって。毎日、お父ちゃんまだけえ、まだけえって、 毎日お墓に行っている。そういう仕度をしているの。

適菜■まさに『晩年の美学』ですね。

キク◆まったくよくわかる人だねえ。まだ若いのに。あなた、いい大学を出たんでしょ。 向いのボコは東大だけど、うちの美江はバカだから困る。でもおばさんだって、まだ体は動くからバイクに乗るだよ。 この前坂道をバイクで走っていたら、後ろから来た車が急ブレーキをかけて、私のバイクのバックミラーが壊れたの。車がこすったのよ。 だけんども私は、交通事故ではどんなことがあっても死なんよ。もし、私が交通事故で死んだら、「あのおばさんは自殺だ」って近所で噂されるからね。 だって年中、「死にたい」って漏らしているんだから。事故なのに自殺と思われたら癪だからね。 でかいトラックの前に、バイクですうっと入っていけば絶対死んじまうけど、そんなことをしたら、近所の衆に「運転手さんが気の毒だ」って言われる。 まあ最近は、脚も悪くなったから、あまりバイクに乗らんようにしているけど

適菜■でもおばさんはまだまだお若いですね。

キク◆そうなのよ。近所には入院している衆もいるけど、そうなりゃ、へえ、あの世とこの世の接点だ。自分の金も使えないし、食べたいものも食べられない。 あてがわれるだけになったら、もうあの世とこの世の接点だと私は言うだよ。

適菜■あの世とこの世の接点か……。詩人ですねえ。

キク◆死人?

適菜■いや、いい言葉だなあということです。

キク◆あら、いやだ。でも静岡県だって、毎年百人以上はお風呂の中で死ぬですよ。寒いときに熱いお湯に入れば、 温度差があるからうまい具合に死ぬことができる。どうすれば自殺に見えないように死ぬことができるか、おばさんはそういう研究までしているんだから。 実行するまでにはいかんけど。

適菜■ではそろそろ……。

キク◆隣に住んでいるおじさんは、家に毎日糠味噌を持ってくるだよ。人参がすごく美味しかったよと言えば、それじゃあ、明日は胡瓜にすると言って持ってくる。男なのに糠味噌を作って、朝はラッキョウを二粒に梅を二粒、なんでも毎食五色食べるんだって。でも、男一人だから気の毒。その人の奥さんは私と同級なんだけど、早くに亡くなってね。だから、私ときどき花を持っていくの。だけんど、向こうも一人、私も一人ずら。だから、近所の衆に何を言われるかわからない。なにも、そのおじさんのことを好きなわけでもないし、糠味噌だって好きじゃない。だけんど『晩年の美学』を読んだら、自分がきちんとしていたら世間の人は関係ないって書いてあったから、そうするわけよ。

適菜■あの、そろそろ……。

キク◆うちの近所にも百歳になるおばあさんがいて、九十歳のころに、「私はね、死ぬときに絶対に嫁にお礼を言って死ぬでごいすよ」と言ったの。 私に。そこの嫁さんだって、もう七十だよ。おばあさん、絶対に老人ホームには入らないというけど、嫁さんだってお風呂の世話も大変でしょう。でも、 献身的に看ているの。へえ百歳だから嫁にお礼なんて言えないじゃん。だからおばあさんが死んだら、私がせめて挽歌を吟じてやろうかと思って。ほうすれば、 おばあさんの気持ちも嫁に通じるし。《死ぬときは嫁にお礼を言うという。一〇三歳の花道を行く》って。そうすれば、嫁さんもうれしいでしょ。ほいで、仏さんに飾っておけばいいじゃん。

適菜■一〇三歳って……。まだ生きてるんでしょ?

キク◆へえ、その頃には死ぬですよ。大正も遠くになりにけりだ。こんなの吟じることができるのは田舎では私しかいないだよ。 でもこんなことは美津子さんにはひとことも言えねえ。だって、美津子さんは学がないから嫉妬する。だから美江もバカになった。 身内に学がない者がいると、私も恥ずかしくて町も歩けんだよ。でもおばさん、いつも黙っているの。口は災いのもとだからね。

適菜■ありがとうございました。うまくまとめていただいて。

【大村キクプロフィール】

●1924年生まれ。静岡県出身。

●著書にエッセイ『遠い散歩道』。

●隣近所との確執多し。

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