全体主義(totalitarianism)は個人より全体を優先させるという考え方です。
これは近代特有の病です。
「じゃあ、前近代に全体主義はなかったのか?」と聞かれたら、「なかった」と答えるしかありません。
全体主義は専制(恐怖に基づく恣意的な権力の行使)や単なる暴政とも違います。
サルがかかる病気を治すためには、サルについて知る必要があります。それと同じで、近代特有の病について考えるためには、近代人について知る必要があります。
そこを理解できれば、今の日本で発生している現象も根底の部分でつながっていることがはっきりすると思います。
なお、全体主義は決まった形で表れるわけではありません。それぞれの国の歴史、社会構造によって症状は様々です。イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ソ連のスターリズムといったものも全体主義の症例のひとつですが、それぞれ内容は異なります。だから、一括りにして論じるのは乱暴です。
これは風邪に似ています。風邪の症状は人によって違います。咳が出るのか、熱が出るのか、頭が痛いのか、下痢をするのか……。それにより、対応も変わってきます。
だから、わが国で発生した病について考えるときは、日本人の「体質」について論じる必要があるのです。
本書は過去の症例(たとえばベニート・ムッソリーニやアドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリンの行動)、あるいは全体主義という概念の歴史を紹介するものではありません。そういう本は山ほど出版されているので、そちらを読んでください。
本書で扱うのは、全体主義が発生する経緯(構造)と、それを用意する大衆のメンタリティーについてです。要するに「体質」の部分です。
ムッソリーニは運動の目標として「全体主義国家」という概念を掲げました。
ファシズムは束ねるということです。ファッショ(fascio)は「束」を意味します。ファシストは、国民の団結、結束を重視し、国家と個人の一体化を目指します。
ナチズム(国民社会主義)もファシズム同様、神話を利用し、カリスマ的指導者によるプロパガンダと暴力により運動を拡大しましたが、超国民的志向を持つナチスはファシズムの国家観とは異なります。
スターリニズムとも違います。スターリンの目的は強制移住や奴隷化により、合理的に近代化を進め、強大な社会主義国をつくることにありました。そういう意味においては、近代啓蒙主義の延長にありましたが、逆にナチスは啓蒙を破壊し、人類の生物学的再編というオカルトに突き進みました。
つまり、代表的な「症例」とされるものでも、内容はまったく異なるということです。
だから、共通する「体質」、根本の部分を理解する必要があります。
たとえばわが国では橋下徹が創始した維新の会は「ハシズム」と「ファシズム」になぞらえる動きがありました。しかし、維新がやっていることは、国民を束にするどころか、分断です。
二〇二二年二月二四日、ロシアがウクライナに侵攻すると、「ウラジーミル・プーチンは全体主義者だ」といった声が大きくなりましたが、むしろ目立ったのは国民の統制の欠如です。
ステレオタイプの「全体主義観」にしがみいて現状を批判するだけでは、病の進行を抑えるどころか、逆にこじらせ重症化する恐れもあります。実際、いろいろこじらせた人たちが社会の一線で大きな口を叩いているのが現在です。
なぜ、そんなことになってしまったのか?
順を追って考えるしかありません。
そこで、第一章では全体主義の土壌、つまり近代について、イギリスの政治学者マイケル・オークショットの議論を中心に考えます。
第二章では近代において発生したメンタリティーについて、ドイツの社会心理学者エーリヒ・フロムとフランス出身の歴史学者アーネスト・ゲルナー、アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンの議論を採り上げます。
第三章では日本で近代が暴走した原因について、小説家の夏目漱石の議論を振り返ります。
第五章と第六章では、現在のわが国の病状について具体的に述べていきます。
この続きは、書籍でお楽しみください。
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